◆ サッカー負けたら・・・ | イタリアよもやま話

◆ サッカー負けたら・・・

負けた、なんて簡単なものじゃないです
イタリア、惨敗でFIFAから敗退です。
同点試合があったとしても、
3試合、一度も勝てなかったんだから、

4年前の優勝国とは思えない・・・。

それにしても、負けると面白いのが人々の反応。
やっぱり、日本人とは違うなぁって思うのが、こんな時です。

試合中は、テレビのあるBARとか以外の街角は、まだ明るいのに、
撃ち合いの前の西部劇の町のように、
なにか人気はあるのに、し~~ん・・・と静まり返り、
サッカーに興味のない私達夫婦にも、
『あっ、今イタリア戦やってるな・・・』
『ただごとでは無いことが起こっている』のがヒシヒシと感じられる約2時間になります。

ちなみに、サッカーに興味のない私達は、
この時間帯はお散歩や、スーパーに買い物をしに行くのがベストと決めてます。
散歩するには、ひと気が無いのを満喫できるし、
スーパーのレジもガラガラなので、並ばなくていいし。
ほとんどの場合、その時間に仕事してることはないです。
(あっても、時間が変更になったり、キャンセルになったりするから)

試合が終わると、それもすぐにわかります。
ちょっと大きな大会で勝つと、町中に皆が躍り出て(主に男性)
旗やらを振り回しながら路上でドンチャン騒ぎを始めるので

一度も勝てなかった今回も、毎回わかりましたよ。
なんだか『時間の止まっていた町』が、突然また動き出すから。
で、ドンチャン騒ぎが無いので、すぐに
『勝てなかったな』
ってわかるんです。

人々の様子を観察すると、皆
何事もなかったかのごとく、振舞っている。
立ち話している人の話に耳を傾けても、
サッカーとは全然違う話をしている・・・。

『結果はどうだったの?』
なんて訊こうものなら、
『ワールドカップ?それ、なんでっか?』
と返事されそうな、そういう雰囲気。

ここが、すごいな、イタリア人って。
と毎回思う点。
(呆れてるんですけどね)

彼らには、
『あそこで、ああしたらよかったのに!』
とか、
『あの時に、こうなってなかったら!』
とかいう議論は皆無なんです。

負け試合は、脳裏から消し去るのみ。
終わったことにはこだわらない、という潔さとはちょっと違うんですよね。
つまり、それほどショックなのです。信じたくない。
でも、あそこまで『何でもないふり』して、日常に戻れるのは、スゴイ。

日本人だったら、

徹底的に分析するでしょう、負けた要因を。
イタリア人の場合は、それが無い。
負けちゃったんだから今更何言っても始まらない、と試合終了と共に諦められるのが
イタリア人なんですよね。

反省、という言葉が存在しないイタリアなんです。
だから、向上心も起こらないし、
ず~っとあのクッキング・ラップのままで行くんです。
(もういいってば・・・)


試合後には、テレビで選手や監督のインタビューしてましたが、
そんなの誰にも興味なし、
視聴者はもうとっくにテレビの前から立ち去ってますから。
テレビ局の方も、枠をとってたので、仕方なく、って感じもしました。
イタリアチーム監督の言葉は
「すべて、すべてが私の責任です。」
のみ。
(とはいえ、『だから、責任とります』とは言ってない・・・)
何か、監督の目から見た試合分析、説明とか、そういうのは無し。
普段はめったに責任なんて言葉は使わないイタリア人だから、
使っても意味無い時に使うんですね・・・。


仕事で、昨日は『早く帰ってイタリア戦を見なきゃ!』なんて騒いでた仕事仲間も、
今日会うと、
彼らの昨日の午後からの記憶が抹殺されたかのように、
サッカーのサの字も出てこない・・・。
それも皆が皆、集団で、です。

なんだか、筒井康孝のSF小説に入り込んだかのようですよ。

昔は、イタリア負けると、優勝戦以外の試合へ関心は薄かったけれど、
最近はEC以外からの外国人移住者もとても増えたので
FIFA熱も、ある程度は続きそうです。